今年のお盆のこと

私事で申し訳ありません。
今回の記事は5年前の2018年8月15日の写真と
同じものです。書いている内容もほとんど一緒です。
GAOの生き物出てきません。
あらかじめご了承ください。

 

 

去る8月15日。「終戦記念日」っていう言葉、やはり年々
聞かなくなってきたような。

それとも自分がテレビを見なくなってきたのか。

自分の祖父は、2人ともすでに数年前に亡くなっているのですが
母方の祖父が特攻隊員でした。飛行機に乗りそのまま敵に突っ込んでいくのが
任務でした。

遺品の中にあったのが、戦時中に作成されたアルバムやノートでした。
写真や新聞の切り抜き、そして同じ隊にいた方々の寄せ書き的なものが
集められていました。

 

祖父の若かりし頃の写真(じーちゃん自分のこと「じゃが輩」って書いてた)
もありましたが

 

 

これは祖父のものではなく、他の特攻隊員の方が書いたものでしょう。
当時の意味はそのまま「敵を見たら必ず殺す」。

同じ隊にいた人たちの覚悟や祖父への言葉が
さまざまな形で綴られていました。

 

 

誰が書いたのか分かりませんが、おそらく階級が上の方ではないでしょうか。

 

 

新聞の記事には特攻隊員の成果。

思うんですよ。

「俺だって」を叶えたときに
本人はもういないんでしょう。

 

 

この文の意味がね、わからないんですよ。
「臼の如くあれ」って、どういう意味なんだろう・・・

 

そもそもこのノート、祖父が生きている間に見せてもらったことは
ないのです。この文を書いた方の意図を知ることは、永遠にありません。

他のページには、同じ隊の方の1人1人の写真が丁寧に貼られていましたが
「ああこの方はいなくなったんだな」
というのがわかる書き方をしていました。

祖父は生きて戦争を終えました。
一度は飛行機で飛んだものの、故障して西日本の小島に不時着。
そのまま終戦を迎えたそうです。

生きている間にもう一度その島に行きたいと言っていましたが
歳をとっていくうちに次第にそんなことを言わなくなり
(病気を患っていたのでそのせいかもしれません)

その島がどこかわかって、一緒に行こうよと提案したことも
あるのですが

「なんで今更。自分だけ生き残って。恥ずかしい」

と言い、それ以降自分も言葉を次ぐことができませんでした。

その後祖父と話した記憶があまりありません。

2018年の8月15日の回には
つらつらと自分の思ったことを書いておりますが

ずっと、想像もできない
他人に知る由もない
とんでもない底知れぬつらさを抱えて生きていたんだろうなと
思います。

あとで聞いた話では、戦時中の話をしてもらえないかと
講話の依頼も来ていたそうですが
そういうのはみんな断っていたそうです。

自分にとってはただ優しいじーちゃんだった。

死んでた可能性があったなんて
小さいころは考えもしませんでした。

ノートの中には
これから旅立つ方々の「必ず任務を果たす」という決意が
多く綴られていましたが

 

 

中にこんな一文が。

じーちゃんが生きるということを予知されていたのでしょうか。
それとも、終戦が近いということを感じていての言葉でしょうか。

亡くなって数年経ちますが、
同じ隊の方たちには会えたのでしょうか。

きっと、謝ったのだろうな。

じーちゃんには「人生を笑顔でくらせ」が
重い一文だったかもしれませんが

孫の自分がそれを受け継げるようにくらしていきたいと
思います。

 

 

 

 

もう1人の祖父、父方の祖父は陸軍でした。
病気で、自分が高校生の頃に亡くなりました。
体調が悪くなり入院したころには、
現在と戦時中の区別がつかないような時や
夢でうなされていたこともあったそうです。

また、指示をする立場にあったらしく
その指示に対する後悔もあったようです。
しかしそんな話をすることもないまま
入院してその後本当にあっという間に亡くなってしまい
もっとたくさん話をしておけばよかったと
後悔しています。

その祖父の墓参りに今年は行けました。その時のお話です↓

 

 

 

 

いつも調餌を担当してくれているTさんにこのことを話したら
「そりゃー見えてたんだね」
と言っていました。(特に霊感あるとかそういうわけではないですけど)

 

ひ孫を見に来てくれていたのかな。

 

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